「仏教、本当の教え」を読んで

そういえば、お経は漢字で書かれているけれど、元々の教典はサンスクリット語やパーリ語だったわけで。

インドから中国へ、中国から日本へと仏教が伝来する過程で、教典が様々に「誤読」「意訳」され、本来とは似ても似つかない意味内容に変換していったであろうことは想像に難くありません。

 

原始仏教が男女・身分を問わない徹底した平等を志向していたこと、古代インドでは国家の観念が希薄で個人が中心だったのに、日本では国家が前面に出てきて「鎮護国家」のために仏教が利用されたこと、初期仏教には女性出家者も多数存在していたらしいことなどは、思わず「へえ-」と感心しました。

 

ただ、考えてみると、同じ話はキリスト教にも言えるわけで。

イエスが話していた言葉はおそらくアラム語でしょうが、初期の聖書はギリシャ語で書かれましたし、その後もラテン語、ドイツ語、英語・・・と、様々な言葉に翻訳される過程で、ニュアンスや意味内容は微妙に変わっていったことでしょう。

 

とすると、イスラム教が、アラビア語以外で書かれたコーランを正式な教典として認めないのは、賢明な選択だったのかも。

 

この本とは関係ないけれど、葬儀の際、浄土宗では、清めの塩を使いませんね。

清めの塩を使う習慣は、日本独自の「ケガレ」観念から派生したもので、もともと仏教とは関係なかったのかも知れません。